調査研究
建物の再開発事業、まちづくり事業などの都市開発から賃貸住宅建築事業などのプロジェクトまで、幅広い分野での調査研究を行っております。
フォトギャラリー
ウィーンにおける建築及び街づくりに関する調査
ウィーンにおける住宅団地開発
カールマルクスホフ
第一次世界大戦が終わり、1918年オーストリア共和国(~1934)が成立する。
共和国政府は劣悪だった労働者層の住宅事情改善のため数多くの大規模市営住宅を作った。オットーワーグナーの弟子のカール・エーンが設計したカールマルクスホフは、全長1㎞以上、1382戸、店舗、病院、託児所、ランドリー、広い中庭などを備えている。中庭を中心として自然に近隣共同体が築きやすい構造であると言える。現役の住宅団地である。
SEESTADT ASPERN(ニュータウン開発)
人口が増加しているウィーン市ではニュータウン開発が進行中である。新しいテクノロジーの利用、できるだけ車を使わない街づくり、異なる階層(年齢、所得)を混在させる、単なるベッドタウンにはしない(25,000人が住み、25,000人が働くニュータウンを目指し、本地を中核として周辺を含め10万人規模の都市圏を作る)といった開発思想は日本などのニュータウン開発とは大きく異なる。
セーシュタットの開発は南西部が建ち始め、北東部はコンペが始まっているところである。低家賃の住宅も混ぜなければならないなど、開発事業者にとってはウィーン市の条件は厳しいためか入札に参加するのはオーストリア国内の企業だけのようである。ウィーン市の開発理念に沿った(採算性からみると厳しい)条件を強いることができる背景は、広大な開発地を市が所有していることにある。ハプスブルグ家の広大な領地は帝国の崩壊とともに共和国のものとなった。中心部の公園も元はハプスブルグ家の狩場であり、セーシュタットも元々はハプスブルグ家専用の飛行場として整備された土地である。安い地代で貸しても、道路などのインフラ等を整備するウィーン市の企業会計が回っている秘密はここにある。
HoHoウィーン
HoHoは、セ―シュタットの地下鉄の駅前に立つ木を中心とした高さ84mのビルである。建物のコアはコンクリートだが、柱、壁にCLT(ひき板を並べた層をクロスに重なるように板を貼り合わせた木の塊のような木質構造用材)を「レゴのように組み合わせ作る」。低層のものは7週間でできたという。外壁も木を使っている。
ウィーン中央駅再開発
ウィーン中央駅は2014年に全面開業した。駅の屋根のデザインがすばらしい。中央駅周辺のまとまった土地(貨物駅の廃止、ホームの統合などにより生み出された)に、5500の住居やオフィスを収容する街区が作られる。近隣のベルヴェデーレ宮殿に配慮しつつ、60mの高層ビル10棟と100mの超高層ビル1棟が建てられる計画である。
カーベルヴェルク(組合方式の住宅地開発)
ウィーン中心部から南西に約5km程のウィーン第12区。かつてのケーブル工場(1882年建設、1997年閉鎖)跡地を活用した住宅団地開発プロジェクトである。1998年にアーバンデザインコンペを実施、2002年に開発計画を承認、2005~2011年頃にかけて順次竣工した。
約1,000世帯の集合住宅の他、ショップや飲食店、幼稚園、劇場、老人ホーム、診療所などが完備されている。ホテルは二つ誘致され、訪問客の滞在など便利に活用されているという。
入居者の集合体である組合的組織(賃貸住宅の管理も行う会社)が、入居者からの権利金(退去時に返却される)を核に住宅地開発を行った。
住宅は、アトリウム住宅、テラス住宅、女性のための住宅、工業用ロフトなど、棟毎にテーマ性のある提案がなされている。決して(成金趣味的な)高価な建築資材は使ってはいないが、色使いのデザインセンスにより、高級感のある良質な住宅団地が形成されていた。一部の賃貸住宅はスケルトンで提供され入居者(賃借人)が自由に内装を行うこともできる。ウィーンでも満足度1位2位を争う住宅団地である。見学した家は建築家のお宅らしくスタイリッシュな中に個性が感じられる素敵な住宅であった。
住棟の組み合わせやピロティによって構成された、いくつもの歩行者のための通り・小径と中央の広場が特徴的である。住宅の高さや公共施設の配置などは、専門家を交え入居者と何度も行われたディスカッションにより決められたという。入居者の希望によりイタリアのようなくねくねした路地が配備されたリ、路地を進むと意外な風景が開けたりと、散歩が楽しくなる街である。
ウィーン市庁舎
設計フリードフォンシュミット
市庁舎は1885年に完成した。建物は奥行き152m、幅127mで、建築面積19,592m²、総面積113,000m²。部屋数は1,575室、窓は2,035枚を数える。ファサードはゴシック建築様式である。
市役所庁舎管理課の方に最初に案内されたのは議会会議場であった。基本的に120年前と同じに保存され、現在も使われている。
ウィーンの著名人物の像が並ぶ大ホールは奥行き71m、幅20mで、リング通り沿いにあるホールで最も広いものの一つである。大ホールとそれに続く部屋は、展覧会、コンサート、舞踏会など、年間およそ800の催し物に使用されている。視察に訪れた時には、市長主催の大昼食会の準備を行っている最中であった。ウィーン市民で一定の年齢に達した高齢者が全員一度はこうした昼食会に招待される制度があるそうである。まさにその日であった。
館内の空調設備は後に作られたものであるが、排気口や配管等は120年前より整備されているものがある。アルプスから流れてくる雪解け水を引っ張ってきて、真夏の暑さに対し冷気を館内に回していたという。屋根裏の配管スペースも見学する機会を得られたが、設備や配管等の問題から(躯体はまだ耐用年限に至らなくとも)取り壊して建て直すしかない日本の多くの古い建築物との対比でいろいろなことを考えさせられる。
オットーワーグナーの建築物
ウィーンは、様々な宮殿、教会などの数多くの歴史的建造物とともに、近代建築と現代建築の宝庫でもあり、建築文化のるつぼである。
フランツヨーゼフ1世は、ウィーン旧市街をぐるりと取り囲む城壁や濠を壊し、1周4㎞、幅57mの「リンク」と呼ばれる環状道路を整備、周りを当時勃興しつつあったブルジョアジーに払い下げた。彼ら資産家は競うように堂々たる建物を建て、様々な建築様式の建物が博物館のよう並んだ。
装飾を排し合理性を追求することが近代建築の出発点だとすれば、世界の近代建築はまさしく世紀末のウィーンの旺盛な建築活動とそれを乗り越える形での19世紀末から20世紀初頭におけるオットーワーグナーらウィーンの建築活動から生まれたとも言えよう。
鉄道などの交通網の整備も含め、ウィーンのすべての都市改造を担ったオットーワーグナーは優れた思想を持った建築家であった。1912年に完成した郵便貯金局(写真)は現在も営業中であるが、世界各国から建築やデザインを勉強する人々が見学に訪れる。
石板をアルミニウムのボルト(デザインとなっている)で固定した郵便貯金局の外観は圧倒的な迫力。ガラス天井からホールへ降り注ぐ光は、ガラスブロックの床材を通し、地下で郵便物仕分け作業を行う労働者にも注がれる。
こうしたオットーワーグナーの平等思想は、バラの花模様のマジョリカ島の焼きタイルを壁面に使ったマジョリカハウス(写真)にも表れている。エレベータのない当時では、2階が一番高額物件(1階は馬車の匂いや埃がある)で上の階ほど低い所得層が住むが、マジョリカハウスは上に行くほど花模様が豪華になる。
オットーワーグナーの作品は、建物のみならず、駅舎(写真)、鉄道橋、水門監視所など多岐にわたるが、地下鉄の整備に伴い不要となった駅や鉄道橋は解体され残っていない。近年、若者を中心とした保存運動等もあり、いくつかは残された。
ガソメーター
ヨーロッパ、とりわけウィーンは古いものを大事に使い上手く活用することに長けている。19世紀末に建造され、天然ガス化により不要となった4基の巨大な円筒状のガスタンクをウィーン市は店舗、住宅、オフィスの複合施設「ガソメーター」として再生させた(2001年)。それぞれ4人の異なる建築家の設計。古い建築物の再生が珍しくないヨーロッパにおいても、これほど大掛かりな産業遺産のコンバージョンはない。
DCタワー
ドナウシティは、ドナウ川の治水事業により生みだされた土地に、国連都市など現代建築群が1996年以降不断に作られる一大都市開発プロジェクト。住宅団地も建設された。高さ220mのDCタワー1(ドミニク・ペローの設計)は2013年末完成。最上階のレストランよりウィーンの街が一望できる。ホテル、オフィスなどで埋まっている。
ウイーン経済大学
1960年代から現代建築や革新的な住宅ビルを作り続けているウィーンに、2013年、ウィーン経済大学新キャンパスがオープンした(プラーター公園脇の都市開発ゾーン)。ピーター・クック、ザッハ・ハディッド、阿部仁史ら世界の著名建築家の作品が並ぶ。ザッハ設計の図書館は細部にわたりザッハの世界が広がる。世界の建築家に競わせるウィーンの国際性は、フランツヨーゼフ皇帝の他民族容認政策以来の流れである。
フィンランドにおける建築及び街づくりに関する調査
ヘルシンキにおける住宅団地開発
タピオラ・ニュータウン
フィンランドは、日本より少し小さい33万㎡の国土(多くは森と湖である)に人口わずか532万人強であるが、首都ヘルシンキなどの都市部に意外に高密度に住んでいる。
農業と林業が中心であったが、1980年代以降携帯電話世界一のハイテク工業国(NOKIAやLinux)となり、何度も年間国際競争力世界一となったヨーロッパ有数の経済大国である。高福祉高負担の国であり、物価は高いが幸福度では毎年世界のトップクラスにある。
英のハワードによって提唱された「田園都市」の考え方を受けて、1950年代から60年代にかけてフィンランドで民間の非営利法人(住宅財団)により開発されたのがタピオラ・ニュータウンである。宅地が全体の4分の1程度なのに対し、オープン・グリーンスペースは半分以上を占める。ベッドタウンではなく多くの職場を提供する「繁栄する自足のコミュニティ」を目指した。
高層と低層の建物が交互に配置されるなど多様性が意識されている。いろいろな階層が混ざり合って住むウィーンの住宅政策と類似している。池のそばの教会は絢爛豪華な装飾はないが、デザイン力の高さが感じられる。戦後、フィンランドの建築家たちが結集して作った街である。分譲住宅が多いがライフスタイルの変化に応じ、住み替えも盛んである。
ヴィーキ住宅
1832年から貴族の領地であった場所が1931年からヘルシンキ大学の管理となり、1987年から大学とタイアップしての実験的な住宅開発が始まり2004年にエコ住宅が完成した。木材使用、太陽光発電(全戸ではない)、ガラス張りのベランダ(サンルーム)など、当時としては先駆的な取り組みである。野生動物や野鳥の生息する広大な自然保護区が印象的。誰でも自然の中の好きな場所を自由に歩ける権利「自然享受権」を大切にし、ヨーロッパで最後に残ったありのままの自然を愛するフィンランドらしいニュータウンである。
アアルトのアトリエ、自邸
建築家アルヴァ・アアルトは北欧モダニズム建築をリードした巨匠であるだけでなく、第二次世界大戦により荒廃した国土の復興に尽力した国民的偉人。一方で、曲線や木材を使用することで自然や人間性を重視した独自のモダニズムを確立した。
アアルトのアトリエとその近くにある自邸は、そのものがアアルトの設計思想を体現している。アトリエは現在も設計事務所として使われ、2階は明るい天窓の下で作業するフロア。窓がカーブするスタジオでは家具などの作品が見られる。外は円形劇場を模した中庭となっている。自邸も、採光やインテリア、各部屋から庭園が見えることなどにアアルトの特徴が見られる。簾や壁に和風も感じられ、建築材にはあまり使われない白樺やブナなどもフィンランドの自然を表すものとして、あえて使っている。
アアルトの作品群
(アカデミア書店、アアルト大学、フィンランディア・ホール)
開放的な造り、採光、考え抜かれた人の動線など現役の書店であるアカデミア書店もアアルトの世界だ。アアルト大学の記念講堂も曲線が印象的で採光に配慮された建物である。
フィンランディア・ホールは1971年に完成した白と青(国旗の色)を基調としたアアルト設計によるホール。1700人収容でコンサートや会議に使用されている。ヘルシンキ大聖堂とともに今なお国民のシンボル的建築物である。
オオディ図書館
フィンランド国民は図書館利用率が世界一。中央駅に近い鉄道施設跡地に2017年12月に建国100周年を記念して作られたオオディ図書館は船のような外観も内部空間も圧巻である。
ミュージックセンター
どの席からも明瞭でバランスの良い音が聴けるように設計されたミュージック・センターは、2011年に作られた。音響設計は日本の豊田泰久氏である。ガラス張りの存在感のある建物。客席はカーブ。フィンランドの国土も表現されている。
テンペリアウキオ教会
テンペリアウキオ教会は1969年完成。岩盤を掘削し、その上に動線を使った円形の屋根を乗せた福音ルーテル派の教会。戦前に異なるデザインが決まっていたが後のデザインコンペによりこのユニークな案が採用された。岩と屋根の間の窓からは自然光が入り、自然の懐に抱かれたような落ち着きを感じる。
カンピ礼拝堂
カンピ礼拝堂は繁華街の真ん中に立つ宇宙船のような不思議な建物。もみの木を「曲げわっぱ」のように曲げて作られた外観。高さ11.5メートルのホール内部を支えるセイヨウヤマハンノキが隙間からの自然光に照らされてぬくもりを感じさせる。宗教行事は行われず、人々が祈りを捧げる場所。
ポルヴォー
ポルヴォーはスェーデン王により1346年に作られた、フィンランドで2番目に古い街。木造の美しい建物が並び、観光地としても人気である。何度も火災に遭っているが、それでもなお昔の面影を残そうとする(街の)確固たる意志を感じさせる。詩人、画家、彫刻家などが好んで住んだこの魅力的な地方都市の姿は、日本の画一的な地方都市振興策との対比で考えさせられる。
イタリアにおける建築及び街づくりに関する調査
ミラノにおける再開発事業
ボスコヴァーティカル
ガリバルディ駅近くの広大な開発地区(ヨーロッパ最大)の中に、全体が緑で覆われた高層マンション・ボスコヴァーティカル(垂直の森)がそびえたっている。人工物の乱立により自然が失われると言う周辺住民の反対に対し、逆に緑のビルを作った。各住戸の広いベランダに背の高い木が植えられているが、水やりなどの自動システムも含め、植物の世話は管理会社が行い、住民は手を出せない。分譲マンションであるが、かなりの管理費負担があるようである。それを承知で購入希望者が殺到した。
シティライフ
ガリバルディ地区では2015年のミラノ万博を機にシティライフと呼ばれる大々的な再開発が行われた。磯崎新の作品とザッハ・ハディットの作品が競うように立ち並ぶ。周りの集合住宅も洒落たデザインである。
ピレリビル(ミラノ)
ミラノ中央駅の近くにそびえるピレリビルはタイヤメーカーのピレリ社の本社ビルとしてジオ・ポンティが設計し、1960年に完成した。その後1978年にロンバルディア州政府の建物に変わった。高さ127.1mのピレリビルが建設された時、初めてミラノでドゥオモの尖塔のマリア像より高い建物が建つことになったため議論が沸騰したが、最終的には認められた。ドゥオモに敬意を表しピレリビルの屋上にはマリア像のレプリカが飾られている。
ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突っ込むテロが行われた頃、ピレリビルに小型飛行機が突っ込んだ。テロではなく自殺と判明したが、9・11に影響されたものだろう。ビルの下にはがれきが山のように積もる大事故であった。飛行機が突っ込んだその階はメモリアルフロアとして保存されている。
聖フランチェスコ教会(ミラノ)
ジオ・ポンティの傑作でもある聖フランチェスコ教会は、背景の青空も取り入れた前面の魅力的なデザインが左右の住宅と一体化している。六角形はジオ・ポンティの言葉(建築は結晶である)そのもの。荘厳ではないが明るく日常的でシンプルな内部空間。教会などによく見られるキリストの一生などを絵や彫刻で描いたものの代わりに、デザインされた文字(ロゴ)による文章表記の鉄の板も印象的だ。
プンタデラドガーナ(ヴェネツィア)
何世紀もの間、新しい建物を建てさせていないヴェネツィアであるが、補修を行うとともに内部をリノベーションすることで街の輝きを保っている。サンマルコ広場対岸の元税関の古い建物を安藤忠雄氏がリノベーションした美術館がプンタデラドガーナである。賛否両論あったようであるが、つるつるに磨かれたコンクリートの壁面はヴェネツィアの大理石の床とともに上質な空間を形作っている。古い木の梁も活かした見事な改築である。
プラーノ島
ブラーノ島はヴェネツィア本島から船で1時間弱かけて行かなければならず、(本島に近くヴェネツィアングラスで有名な)ムラーノ島と違って大勢の観光客が訪れる島ではない。しかし「死ぬまでに一度は訪れたい観光地」の上位にランクされる美しい島である。本島と同様、この島にも車は一台もない。漁師が船で運河を進み、霧の中でも我が家が分かるように各住戸の壁をカラフルに色分けている。美しく可愛らしい街並みが島の至る所で見られる。
パラディオによる建築物群(ヴィチェンザ)
古い建物を保存することで街の魅力を高める都市戦略をとったヴィチェンザ(世界遺産)は建築を学ぶ者にはたまらない偉大な建築家パラディオの作品群が展開する町中が建築博物館のような街である。
城(13世紀)の中庭に作られた世界初の屋内劇場、テアトロ・オリンピコは、ローマの野外劇場を模したパラディオによる建築物であるが、舞台には古代ギリシャのテーベの街路が遠近法を用いて作られている(初演が、テーベの王の物語「オイディプス」だった)。なお、客席背後の見事な彫像群は木と漆喰の言わば張りぼてである。
カステルベッキオ(ヴェローナ)
アディジェ川に面し14世紀に建てられたヴェッキオ城は、スカルパのリノベーションにより、素晴らしい美術館として再生された。 ボロボロだった中世の城は、スカルパの様々な修復のアイディアにより、本来の姿を残しつつ、全く新しい良質な空間へと変貌した。壁の壁画(部分的にわざと残して見せている)はコンクリートで消され、展示物も計算されつくされた配置に変えられた。日本の障子をモチーフにした扉など鉄を各所で取り入れる一方、(教皇派と皇帝派が争ったヴェローナで)皇帝派を表すMの意匠は残されている。
フランクフルトにおける建築及び街づくりに関する調査
フランクフルトにおける住宅団地開発
ハイマット団地とレーマーシュタット団地
フランクフルトにおいては、1920年代後半から1930年代に、市民のための住宅団地が作られた。それは実用性と機能性を追求し、健康的な生活環境を提供する画期的なものであった。
フランクフルト市の南に、建築家・都市計画家であるエルンスト・マイが計画した住宅団地リードホフ・ヴェストが1927~1934年にかけて建設された。その後、ナチスの台頭によりマイがフランクフルトを去り、リードホフ・ヴェスト以外の計画はほとんど実現しなかったが、ゾーニングや建物の配置計画が良好な住環境の実現に極めて重要であるという考えは定着していった。
住宅棟の間に緑地が配置され、各緑地は植樹、観賞用の庭、遊び場や芝生での天日干しの場などに活用可能で、健康的な生活環境が作られた。3・4階建て住宅棟は、各階で屋外とつながるよう、最上階は屋根つきバルコニー、2・3階はサンルーム、1階はパティオと小さな庭が設けられるなど、住宅の利用価値を高めている。
エルンスト・マイは住宅設備の標準化も提案した。オーストリアの女性建築家マルガレーテ・シュッテ・リホツキーとともに、家事労働での行動の撮影分析により主婦が一人で操作できる合理的なキッチンを生み出した。標準化されたユニットは大量生産され、標準化は台所に止まらず、インテリア全体の各部に及んだ。
フランクフルト北西部のレーマーシュタット団地は、ニダ川の谷筋全体の景観づくりにも配慮され、団地内には、店舗、保育園、共同洗濯場、コミュニティーセンター、遊び場、宿泊施設、学校そして劇場まで備えられている。80年も前に建てられた集合住宅がいまでも好評で、かなりの空き待ち状態であるという。住宅は小さいが総地下で2階建て、190㎡の専用庭付きである。
スペインにおける建築及び街づくりに関する調査
バルセロナのオリンピックスタジアム
スペイン・バルセロナの都市戦略は、今も昔も、観光に加え、連続的なコンベンションにより来訪者を増やすことにある。古くから国際見本市、オリンピック、国際会議を積極的に行い、そのための施設を世界の建築家に依頼して作っている。
有森裕子とエゴロワが死闘を演じたモンジュイックの丘のオリンピックスタジアム(写真)は、1936年のナチ政権下のベルリン・オリンピックに反発したスペイン(共和国政府)が労働者による「人民オリンピック」開催のため作ったもの(フランコによる内戦勃発で開催されなかった)。1992年のバルセロナ・オリンピックのため施設を生かしつつ改修。磯崎新氏設計によるサンジョルディ体育館(写真)も近くにある。
火矢を放ち遠くの聖火台(写真)に点火した劇的な演出はバルセロナ・オリンピックを最も印象に残る開会式としたが、聖火台は、演出が決まってから作られたスタジアム外の完全外付け。2020年東京オリンピックの新国立競技場の設計に聖火台が考慮されていなかったとして、設計者の隈研吾氏をマスコミが追い回したが、過去のわずかな調査もせず人を糾弾する日本のジャーナリズムのレベルの低さを示す出来事であった。
株式会社FS総合研究所
営業時間 月〜金曜日9:00〜17:00
ウィーン中心部から南西に約5km程のウィーン第12区。かつてのケーブル工場(1882年建設、1997年閉鎖)跡地を活用した住宅団地開発プロジェクトである。1998年にアーバンデザインコンペを実施、2002年に開発計画を承認、2005~2011年頃にかけて順次竣工した。
約1,000世帯の集合住宅の他、ショップや飲食店、幼稚園、劇場、老人ホーム、診療所などが完備されている。ホテルは二つ誘致され、訪問客の滞在など便利に活用されているという。
入居者の集合体である組合的組織(賃貸住宅の管理も行う会社)が、入居者からの権利金(退去時に返却される)を核に住宅地開発を行った。
住宅は、アトリウム住宅、テラス住宅、女性のための住宅、工業用ロフトなど、棟毎にテーマ性のある提案がなされている。決して(成金趣味的な)高価な建築資材は使ってはいないが、色使いのデザインセンスにより、高級感のある良質な住宅団地が形成されていた。一部の賃貸住宅はスケルトンで提供され入居者(賃借人)が自由に内装を行うこともできる。ウィーンでも満足度1位2位を争う住宅団地である。見学した家は建築家のお宅らしくスタイリッシュな中に個性が感じられる素敵な住宅であった。
住棟の組み合わせやピロティによって構成された、いくつもの歩行者のための通り・小径と中央の広場が特徴的である。住宅の高さや公共施設の配置などは、専門家を交え入居者と何度も行われたディスカッションにより決められたという。入居者の希望によりイタリアのようなくねくねした路地が配備されたリ、路地を進むと意外な風景が開けたりと、散歩が楽しくなる街である。
設計フリードフォンシュミット
市庁舎は1885年に完成した。建物は奥行き152m、幅127mで、建築面積19,592m²、総面積113,000m²。部屋数は1,575室、窓は2,035枚を数える。ファサードはゴシック建築様式である。
市役所庁舎管理課の方に最初に案内されたのは議会会議場であった。基本的に120年前と同じに保存され、現在も使われている。
ウィーンの著名人物の像が並ぶ大ホールは奥行き71m、幅20mで、リング通り沿いにあるホールで最も広いものの一つである。大ホールとそれに続く部屋は、展覧会、コンサート、舞踏会など、年間およそ800の催し物に使用されている。視察に訪れた時には、市長主催の大昼食会の準備を行っている最中であった。ウィーン市民で一定の年齢に達した高齢者が全員一度はこうした昼食会に招待される制度があるそうである。まさにその日であった。
館内の空調設備は後に作られたものであるが、排気口や配管等は120年前より整備されているものがある。アルプスから流れてくる雪解け水を引っ張ってきて、真夏の暑さに対し冷気を館内に回していたという。屋根裏の配管スペースも見学する機会を得られたが、設備や配管等の問題から(躯体はまだ耐用年限に至らなくとも)取り壊して建て直すしかない日本の多くの古い建築物との対比でいろいろなことを考えさせられる。
ウィーンは、様々な宮殿、教会などの数多くの歴史的建造物とともに、近代建築と現代建築の宝庫でもあり、建築文化のるつぼである。
フランツヨーゼフ1世は、ウィーン旧市街をぐるりと取り囲む城壁や濠を壊し、1周4㎞、幅57mの「リンク」と呼ばれる環状道路を整備、周りを当時勃興しつつあったブルジョアジーに払い下げた。彼ら資産家は競うように堂々たる建物を建て、様々な建築様式の建物が博物館のよう並んだ。
装飾を排し合理性を追求することが近代建築の出発点だとすれば、世界の近代建築はまさしく世紀末のウィーンの旺盛な建築活動とそれを乗り越える形での19世紀末から20世紀初頭におけるオットーワーグナーらウィーンの建築活動から生まれたとも言えよう。
鉄道などの交通網の整備も含め、ウィーンのすべての都市改造を担ったオットーワーグナーは優れた思想を持った建築家であった。1912年に完成した郵便貯金局(写真)は現在も営業中であるが、世界各国から建築やデザインを勉強する人々が見学に訪れる。
石板をアルミニウムのボルト(デザインとなっている)で固定した郵便貯金局の外観は圧倒的な迫力。ガラス天井からホールへ降り注ぐ光は、ガラスブロックの床材を通し、地下で郵便物仕分け作業を行う労働者にも注がれる。
こうしたオットーワーグナーの平等思想は、バラの花模様のマジョリカ島の焼きタイルを壁面に使ったマジョリカハウス(写真)にも表れている。エレベータのない当時では、2階が一番高額物件(1階は馬車の匂いや埃がある)で上の階ほど低い所得層が住むが、マジョリカハウスは上に行くほど花模様が豪華になる。
オットーワーグナーの作品は、建物のみならず、駅舎(写真)、鉄道橋、水門監視所など多岐にわたるが、地下鉄の整備に伴い不要となった駅や鉄道橋は解体され残っていない。近年、若者を中心とした保存運動等もあり、いくつかは残された。
ヨーロッパ、とりわけウィーンは古いものを大事に使い上手く活用することに長けている。19世紀末に建造され、天然ガス化により不要となった4基の巨大な円筒状のガスタンクをウィーン市は店舗、住宅、オフィスの複合施設「ガソメーター」として再生させた(2001年)。それぞれ4人の異なる建築家の設計。古い建築物の再生が珍しくないヨーロッパにおいても、これほど大掛かりな産業遺産のコンバージョンはない。
ドナウシティは、ドナウ川の治水事業により生みだされた土地に、国連都市など現代建築群が1996年以降不断に作られる一大都市開発プロジェクト。住宅団地も建設された。高さ220mのDCタワー1(ドミニク・ペローの設計)は2013年末完成。最上階のレストランよりウィーンの街が一望できる。ホテル、オフィスなどで埋まっている。
1960年代から現代建築や革新的な住宅ビルを作り続けているウィーンに、2013年、ウィーン経済大学新キャンパスがオープンした(プラーター公園脇の都市開発ゾーン)。ピーター・クック、ザッハ・ハディッド、阿部仁史ら世界の著名建築家の作品が並ぶ。ザッハ設計の図書館は細部にわたりザッハの世界が広がる。世界の建築家に競わせるウィーンの国際性は、フランツヨーゼフ皇帝の他民族容認政策以来の流れである。
フィンランドは、日本より少し小さい33万㎡の国土(多くは森と湖である)に人口わずか532万人強であるが、首都ヘルシンキなどの都市部に意外に高密度に住んでいる。
農業と林業が中心であったが、1980年代以降携帯電話世界一のハイテク工業国(NOKIAやLinux)となり、何度も年間国際競争力世界一となったヨーロッパ有数の経済大国である。高福祉高負担の国であり、物価は高いが幸福度では毎年世界のトップクラスにある。
英のハワードによって提唱された「田園都市」の考え方を受けて、1950年代から60年代にかけてフィンランドで民間の非営利法人(住宅財団)により開発されたのがタピオラ・ニュータウンである。宅地が全体の4分の1程度なのに対し、オープン・グリーンスペースは半分以上を占める。ベッドタウンではなく多くの職場を提供する「繁栄する自足のコミュニティ」を目指した。
高層と低層の建物が交互に配置されるなど多様性が意識されている。いろいろな階層が混ざり合って住むウィーンの住宅政策と類似している。池のそばの教会は絢爛豪華な装飾はないが、デザイン力の高さが感じられる。戦後、フィンランドの建築家たちが結集して作った街である。分譲住宅が多いがライフスタイルの変化に応じ、住み替えも盛んである。
1832年から貴族の領地であった場所が1931年からヘルシンキ大学の管理となり、1987年から大学とタイアップしての実験的な住宅開発が始まり2004年にエコ住宅が完成した。木材使用、太陽光発電(全戸ではない)、ガラス張りのベランダ(サンルーム)など、当時としては先駆的な取り組みである。野生動物や野鳥の生息する広大な自然保護区が印象的。誰でも自然の中の好きな場所を自由に歩ける権利「自然享受権」を大切にし、ヨーロッパで最後に残ったありのままの自然を愛するフィンランドらしいニュータウンである。
建築家アルヴァ・アアルトは北欧モダニズム建築をリードした巨匠であるだけでなく、第二次世界大戦により荒廃した国土の復興に尽力した国民的偉人。一方で、曲線や木材を使用することで自然や人間性を重視した独自のモダニズムを確立した。
アアルトのアトリエとその近くにある自邸は、そのものがアアルトの設計思想を体現している。アトリエは現在も設計事務所として使われ、2階は明るい天窓の下で作業するフロア。窓がカーブするスタジオでは家具などの作品が見られる。外は円形劇場を模した中庭となっている。自邸も、採光やインテリア、各部屋から庭園が見えることなどにアアルトの特徴が見られる。簾や壁に和風も感じられ、建築材にはあまり使われない白樺やブナなどもフィンランドの自然を表すものとして、あえて使っている。
(アカデミア書店、アアルト大学、フィンランディア・ホール)
開放的な造り、採光、考え抜かれた人の動線など現役の書店であるアカデミア書店もアアルトの世界だ。アアルト大学の記念講堂も曲線が印象的で採光に配慮された建物である。
フィンランディア・ホールは1971年に完成した白と青(国旗の色)を基調としたアアルト設計によるホール。1700人収容でコンサートや会議に使用されている。ヘルシンキ大聖堂とともに今なお国民のシンボル的建築物である。
フィンランド国民は図書館利用率が世界一。中央駅に近い鉄道施設跡地に2017年12月に建国100周年を記念して作られたオオディ図書館は船のような外観も内部空間も圧巻である。
どの席からも明瞭でバランスの良い音が聴けるように設計されたミュージック・センターは、2011年に作られた。音響設計は日本の豊田泰久氏である。ガラス張りの存在感のある建物。客席はカーブ。フィンランドの国土も表現されている。
テンペリアウキオ教会は1969年完成。岩盤を掘削し、その上に動線を使った円形の屋根を乗せた福音ルーテル派の教会。戦前に異なるデザインが決まっていたが後のデザインコンペによりこのユニークな案が採用された。岩と屋根の間の窓からは自然光が入り、自然の懐に抱かれたような落ち着きを感じる。
カンピ礼拝堂は繁華街の真ん中に立つ宇宙船のような不思議な建物。もみの木を「曲げわっぱ」のように曲げて作られた外観。高さ11.5メートルのホール内部を支えるセイヨウヤマハンノキが隙間からの自然光に照らされてぬくもりを感じさせる。宗教行事は行われず、人々が祈りを捧げる場所。
ポルヴォーはスェーデン王により1346年に作られた、フィンランドで2番目に古い街。木造の美しい建物が並び、観光地としても人気である。何度も火災に遭っているが、それでもなお昔の面影を残そうとする(街の)確固たる意志を感じさせる。詩人、画家、彫刻家などが好んで住んだこの魅力的な地方都市の姿は、日本の画一的な地方都市振興策との対比で考えさせられる。
ガリバルディ駅近くの広大な開発地区(ヨーロッパ最大)の中に、全体が緑で覆われた高層マンション・ボスコヴァーティカル(垂直の森)がそびえたっている。人工物の乱立により自然が失われると言う周辺住民の反対に対し、逆に緑のビルを作った。各住戸の広いベランダに背の高い木が植えられているが、水やりなどの自動システムも含め、植物の世話は管理会社が行い、住民は手を出せない。分譲マンションであるが、かなりの管理費負担があるようである。それを承知で購入希望者が殺到した。
ガリバルディ地区では2015年のミラノ万博を機にシティライフと呼ばれる大々的な再開発が行われた。磯崎新の作品とザッハ・ハディットの作品が競うように立ち並ぶ。周りの集合住宅も洒落たデザインである。
ミラノ中央駅の近くにそびえるピレリビルはタイヤメーカーのピレリ社の本社ビルとしてジオ・ポンティが設計し、1960年に完成した。その後1978年にロンバルディア州政府の建物に変わった。高さ127.1mのピレリビルが建設された時、初めてミラノでドゥオモの尖塔のマリア像より高い建物が建つことになったため議論が沸騰したが、最終的には認められた。ドゥオモに敬意を表しピレリビルの屋上にはマリア像のレプリカが飾られている。
ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突っ込むテロが行われた頃、ピレリビルに小型飛行機が突っ込んだ。テロではなく自殺と判明したが、9・11に影響されたものだろう。ビルの下にはがれきが山のように積もる大事故であった。飛行機が突っ込んだその階はメモリアルフロアとして保存されている。
ジオ・ポンティの傑作でもある聖フランチェスコ教会は、背景の青空も取り入れた前面の魅力的なデザインが左右の住宅と一体化している。六角形はジオ・ポンティの言葉(建築は結晶である)そのもの。荘厳ではないが明るく日常的でシンプルな内部空間。教会などによく見られるキリストの一生などを絵や彫刻で描いたものの代わりに、デザインされた文字(ロゴ)による文章表記の鉄の板も印象的だ。
何世紀もの間、新しい建物を建てさせていないヴェネツィアであるが、補修を行うとともに内部をリノベーションすることで街の輝きを保っている。サンマルコ広場対岸の元税関の古い建物を安藤忠雄氏がリノベーションした美術館がプンタデラドガーナである。賛否両論あったようであるが、つるつるに磨かれたコンクリートの壁面はヴェネツィアの大理石の床とともに上質な空間を形作っている。古い木の梁も活かした見事な改築である。
ブラーノ島はヴェネツィア本島から船で1時間弱かけて行かなければならず、(本島に近くヴェネツィアングラスで有名な)ムラーノ島と違って大勢の観光客が訪れる島ではない。しかし「死ぬまでに一度は訪れたい観光地」の上位にランクされる美しい島である。本島と同様、この島にも車は一台もない。漁師が船で運河を進み、霧の中でも我が家が分かるように各住戸の壁をカラフルに色分けている。美しく可愛らしい街並みが島の至る所で見られる。
古い建物を保存することで街の魅力を高める都市戦略をとったヴィチェンザ(世界遺産)は建築を学ぶ者にはたまらない偉大な建築家パラディオの作品群が展開する町中が建築博物館のような街である。
城(13世紀)の中庭に作られた世界初の屋内劇場、テアトロ・オリンピコは、ローマの野外劇場を模したパラディオによる建築物であるが、舞台には古代ギリシャのテーベの街路が遠近法を用いて作られている(初演が、テーベの王の物語「オイディプス」だった)。なお、客席背後の見事な彫像群は木と漆喰の言わば張りぼてである。
アディジェ川に面し14世紀に建てられたヴェッキオ城は、スカルパのリノベーションにより、素晴らしい美術館として再生された。 ボロボロだった中世の城は、スカルパの様々な修復のアイディアにより、本来の姿を残しつつ、全く新しい良質な空間へと変貌した。壁の壁画(部分的にわざと残して見せている)はコンクリートで消され、展示物も計算されつくされた配置に変えられた。日本の障子をモチーフにした扉など鉄を各所で取り入れる一方、(教皇派と皇帝派が争ったヴェローナで)皇帝派を表すMの意匠は残されている。
フランクフルトにおいては、1920年代後半から1930年代に、市民のための住宅団地が作られた。それは実用性と機能性を追求し、健康的な生活環境を提供する画期的なものであった。
フランクフルト市の南に、建築家・都市計画家であるエルンスト・マイが計画した住宅団地リードホフ・ヴェストが1927~1934年にかけて建設された。その後、ナチスの台頭によりマイがフランクフルトを去り、リードホフ・ヴェスト以外の計画はほとんど実現しなかったが、ゾーニングや建物の配置計画が良好な住環境の実現に極めて重要であるという考えは定着していった。
住宅棟の間に緑地が配置され、各緑地は植樹、観賞用の庭、遊び場や芝生での天日干しの場などに活用可能で、健康的な生活環境が作られた。3・4階建て住宅棟は、各階で屋外とつながるよう、最上階は屋根つきバルコニー、2・3階はサンルーム、1階はパティオと小さな庭が設けられるなど、住宅の利用価値を高めている。
エルンスト・マイは住宅設備の標準化も提案した。オーストリアの女性建築家マルガレーテ・シュッテ・リホツキーとともに、家事労働での行動の撮影分析により主婦が一人で操作できる合理的なキッチンを生み出した。標準化されたユニットは大量生産され、標準化は台所に止まらず、インテリア全体の各部に及んだ。
フランクフルト北西部のレーマーシュタット団地は、ニダ川の谷筋全体の景観づくりにも配慮され、団地内には、店舗、保育園、共同洗濯場、コミュニティーセンター、遊び場、宿泊施設、学校そして劇場まで備えられている。80年も前に建てられた集合住宅がいまでも好評で、かなりの空き待ち状態であるという。住宅は小さいが総地下で2階建て、190㎡の専用庭付きである。
スペイン・バルセロナの都市戦略は、今も昔も、観光に加え、連続的なコンベンションにより来訪者を増やすことにある。古くから国際見本市、オリンピック、国際会議を積極的に行い、そのための施設を世界の建築家に依頼して作っている。
有森裕子とエゴロワが死闘を演じたモンジュイックの丘のオリンピックスタジアム(写真)は、1936年のナチ政権下のベルリン・オリンピックに反発したスペイン(共和国政府)が労働者による「人民オリンピック」開催のため作ったもの(フランコによる内戦勃発で開催されなかった)。1992年のバルセロナ・オリンピックのため施設を生かしつつ改修。磯崎新氏設計によるサンジョルディ体育館(写真)も近くにある。
火矢を放ち遠くの聖火台(写真)に点火した劇的な演出はバルセロナ・オリンピックを最も印象に残る開会式としたが、聖火台は、演出が決まってから作られたスタジアム外の完全外付け。2020年東京オリンピックの新国立競技場の設計に聖火台が考慮されていなかったとして、設計者の隈研吾氏をマスコミが追い回したが、過去のわずかな調査もせず人を糾弾する日本のジャーナリズムのレベルの低さを示す出来事であった。
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